カラフルな色合いとやさしいタッチで描かれ、見ているだけで笑顔になってしまう作品の数々。世界に笑顔を広げるアーティストRIEさんは、その手から紡ぎ出す絵同様、キラキラと輝く笑顔が印象的だ。しかし、この笑顔を、そして夢を取り戻すまでは、生きる意味さえ見失っていた時期があった。RIEさんを救った出会いとは?
ーー小さいころから絵を描くのが好きだったのですか? どんな少女時代を過ごしたのかお聞かせください。
父がガラス作家で母は美大出身、祖父母も美術に造詣が深いという芸術一家で、画材などが普通に転がっているような家庭だったんです。そうした影響もあり、お絵かきしたり何か作ったりが大好きな子どもでした。学校では図画工作が得意でしたね。
高校は、モダンクラフト科という美術コースのある学校へ。授業は楽しかったけれど、デッサンが苦手で。きっちり線を引いたりちゃんと描いたりが性に合わなかったみたい。一方で、その場で先生が出したテーマを決められた時間内に描き上げる「自由画」は大好きで、高く評価もされました。自由にイメージして描くときには、自分らしさを思い切り発揮できたのです。
部活は陶芸部に。その勉強を続けようと、高校卒業後は、京都嵯峨芸術短期大学(当時)の陶芸学科へ進みました。
ーー美術に関する仕事をしたいという思いがあったのですか?
実は、父が私が美術の道に進むことに猛反対していました。芸術で食べていくことの大変さを身にしみてわかっていたから、私にはその苦労をさせたくなかったようです。だからガラスには一切触らせてくれなかった。陶芸を選んだのはそのためでした。
そんな家庭の事情もありましたが、時代もよくなかった。就職氷河期の最後のころで、美大の短大でしかも陶芸専攻なんて、美術関係の仕事どころか、そもそも就職できるかもわからない。周りのみんなも不安を抱え、将来の希望なんてまるで持てないでいました。
それでも、いやが応でも卒業のときはやってきます。まだ社会に出たくないと思っていたとき、ワーキングホリデーの制度を知り、1年間オーストラリアへ行くことに。原住民のアボリジニーアートを学び、その技術や色使いなどを陶芸に生かしたいと思ったのです。ところが渡豪後、教えてくれるところを訪ねたら「血縁関係がないと教えられない」と門前払い。いきなり夢破れてしまいました。
仕方なく遊びほうけているうちにあっという間に1年がすぎ、帰国。いよいよ働かなくちゃと焦っていたとき、何げなくテレビを見ていたら「世界ふしぎ発見!」が放映されていました。海外を旅しながらリポートするという仕事がとても魅力的に映り、やってみたい! と。オーストラリア各地を旅した経験も後押ししたと思います。
テレビ局に電話で問い合わせたら、芸能事務所に所属していることが条件とのこと。たまたま新聞に応募が出ていた事務所のオーディションを受けたところ合格、すぐに上京しました。21歳のことでした。
生活とお金に追われ生きる意味すら見失ってしまった日々
ーー東京での暮らしはいかがでしたか?
何より物価が高くて驚きました。その上、なんとリポーターの次のオーディションは3年後だと知って……。東京に出てきて事務所にも入っちゃったのにどうしよう、と。レッスンを受けながら生活のためにアルバイトをしていましたが、そのうちバイトの比重が多くなり、レッスンも休みがちに。夢を持って東京に来たのに、生活に追われいつしかその夢も忘れ、気づけばお金を稼ぐことに必死になっていた。私、なんのために東京にいるんだろう? なんのために生きてるんだろう?……すべてがわからなくなりました。
それでも働かなくちゃ生きていけない。夢は諦め、正社員の営業職に就くことに。早くお金を稼いで、古くてもいいから家を買い、ギャラリーカフェでもできたら、と思ったのです。しかし与えられたのは、電話帳の1ページ目の一番上から全部電話をかけて売り込みする、ザ・営業みたいな過酷な仕事で。ノルマが厳しく寝る時間もほとんどなく、人も信用できなくなり、心身ともに追い詰められていきました。それでも「3年はやらなきゃ」と必死にしがみついていた。意固地になっていたのかもしれません。
ある日体調を崩し、風邪かと病院に行ったら、医師は厳しい顔でこう言いました。「これは風邪じゃない。精神病になる一歩手前で、このまま仕事を続けていたら胃に穴が開いてしまいますよ」。うつ病という病名が今ほど一般的ではなかったけれど、つまり、私はうつ病になっていたんですね。ドクターストップがかかり、仕事は辞めざるをえなくなりました。
自信を失い、人間不信に陥り、生きる意味さえ見い出せなくなっていました。そんなとき、大学生だった妹がマレーシアのボルネオ島に行くエコツーリズムに誘ってくれた。ボルネオがどんなところなのかもまるで知らなかったのに、私は「行く!」と答えていました。出口の見えない暗闇の中、藁をもつかむ思いだったのです。
貧しい島で出会った一人の少女 その無垢な言葉に絵筆を握る
ーー心に傷を抱えて訪れたボルネオ島。どんな時間を過ごしたのですか?
ジャングルの奥地に集落があり、村人の家にホームステイするというプログラムでした。その暮らしぶりは驚くことばかり。家はトタンを組み立てただけ。電気もガスもちゃんと通っていなくて、ドラム缶に雨水をためてお風呂がわりにその水を浴び、トイレは川の上でする……。原始的で不便すぎる生活は、荒んでいた私にとってストレスでしかありませんでした。ところが現地の人たちは大人も子どももみんな笑っていて、すごくフレンドリー。片言の英語で一生懸命話しかけてくれるのです。
でも、あのころの私はとにかく人が怖くて村人たちの輪の中に入って行けなかった。「こっちにおいでよ」と優しく声をかけられることすら煩わしいと感じて。頑なに心を閉ざしていた私に、しかし、ステイ先のおうちの女の子がいつも話しかけて来てくれました。7歳か8歳、小学校の低学年ぐらいだったと思いますが、貧しくて学校に通えてはいなかった。その子があるとき、こう話し始めたのです。
「私には夢があるの。学校の先生になりたい。でも、村も家も貧しいから叶わないかもしれない」
ハッとしました。日本人である私は、パスポート一つでいろんな国に行くことができ、夢だって頑張れば叶えることができる。なのに、自分のことばかり考え、人の優しさを拒み、投げやりになっていた。それがいかに傲慢なことか……。さらに、彼女はとびきりの笑顔でこう言ってくれました。
「夢は叶わないとしても、あなたみたいにいろんな国の人が会いに来てくれることが、私にとって大切な宝物になっているの」
涙がとめどなく流れました。こんな私と会えたことを宝物と思ってくれる人がいる。そして考え始めました。自分のためではなく、この少女のために、この少女のように夢をかなえられない多くの人のために、一体私に何ができるのかーー。
私は再び夢を持ちました。幼いころから好きだった絵を描き、世界中に笑顔を広げていこう、と。
後編につづく。
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ーーBackstage from “ethica”ーー
海岸で初めてお会いしたRIEさんは、波間のきらめきにも負けないほどキラキラと輝く笑顔が印象的。しかし、20歳前後のころに話が及ぶと、苦しかった当時を思い出し声を詰まらせました。人によって傷ついた心は、しかし、人との出会いによって癒され、再生していくーー。そんなRIEさんの経験は、今を生きる多くの女性たちに希望を与えてくれるはずです。
世界中に笑顔を広げるアーティストRIE
1982年大阪府堺市生まれ。(現在、湘南在住)2002年京都嵯峨芸術短期大学陶芸学科卒業。2005年にボルネオ島のある村で、貧しくても感謝を忘れない一人の少女の笑顔と出会い、大切なのは「心の豊かさ」だと気づく。 それ以来、「人の心の豊かさ、温かさを世界中に広げたい」という願いを込めて絵を描き続けている。2009年日本テレビ『おしゃれイズム』スタジオアート作品提供。2011年宮城県南三陸町を訪問。震災復興支援の絵を贈呈。2012年ANA創立60周年機体デザインコンテスト大賞を受賞。2015年『世界で一番たいせつなあなたへ~マザー・テレサからの贈り物~』2016年『あなたのままで輝いて~マザー・テレサが教えてくれたこと~』2017年『ほんとうの自分になるために~マザー・テレサに導かれて~』(いずれもPHP研究所)を出版。その他、書籍の出版、個展等幅広いジャンルで活躍している。
記者:中津海 麻子
慶応義塾大学法学部政治学科卒。朝日新聞契約ライター、編集プロダクションなどを経てフリーランスに。人物インタビュー、食、ワイン、日本酒、本、音楽、アンチエイジングなどの取材記事を、新聞、雑誌、ウェブマガジンに寄稿。主な媒体は、朝日新聞、朝日新聞デジタル&w、週刊朝日、AERAムック、ワイン王国、JALカード会員誌AGORA、「ethica(エシカ)~私によくて、世界にイイ。~ 」など。大のワンコ好き。
提供:サラヤ株式会社
私によくて、世界にイイ。~ ethica(エシカ)~
http://www.ethica.jp