「美の頂点」を競うミス・ユニバース世界大会。そこを目指し努力する女性たちの姿に心打たれ、「あの場に立つ」と決意した原綾子さん。自分の夢に向かって次々とアクションを起こしていったが、しかし、未曾有の震災を目の当たりにし、意識が大きく変わる。
ーー幼いころや思春期はどんな風に過ごしましたか?
宮城県仙台市で生まれ育ちました。仙台と言っても山形県との県境で、とにかく自然が豊か。男の子たちと一緒に川で魚を獲ったり、山の中に秘密基地を作ったり……。野生児でしたね(笑)。
運動も大好き。幼稚園の園庭の鉄棒でクルクル回っているのを母が見て、小学生になると器械体操の教室に通わせてくれました。体操って、ほんのわずか体脂肪率が増えてもコーチから怒られる。小学生にして自分の体を常に意識するようになりました。中学には体操部がなかったのでソフトテニス部に。ソフトテニスは日本発祥のスポーツで、硬式テニスと違いダブルスのみ。相方といかに息を合わせてプレーするか、強く変化するボールをどう打ち返すか。それがおもしろくて夢中になりました。
高校生でもソフトテニスを続け、絵に描いたような鬼コーチにしごかれました。練習で気合が入っていなかったり、試合で負けたりすると「今すぐ髪切ってこい!」。どんどん短くなって、このままだと髪がなくなっちゃう! と必死でした(笑)。でも、目標を明確にする大切さを知り、もっと上を目指そうという「心のスイッチ」が入った。それはコーチのおかげです。インターハイで全国に行く、それを目標に掲げました。
ーーつらかったこと、大変だった思い出は?
練習しすぎて腕を痛め、「テニス肘」になったことです。ラケットはもちろん、授業中にペンを握るのすら痛くて……。2年生で団体メンバーに選抜され、調子が上がってきていた時期だったのでショックは大きく、このままではライバルに抜かれてしまうと焦りました。でも、悲観していても何も始まらない。両手打ちにしてみようか、いっそのこと左手を使ってみようかなどあれこれ解決策を探りながら、試合でベストなパフォーマンスを出せるような日常生活を心がけました。
結局、痛み止めの注射を打って試合に臨んだのですが、「やりすぎは良くない」と思い知りました。当時の私は、強くなるためにはがむしゃらに練習すればいいと思っていたけれど、それは違った。ケガをせずにいい状態を保てるようにしなければいけなかった。目標を達成するためには、自分をきちんとマネジメントすることも大切だと身をもって知ったのです。そういう意味ではいい経験だったと思います。
3年の時、念願のインターハイに出場。上位入賞は逃しましたが、「全国大会出場」という目標は達成できました。
ーー卒業後は?
大きな目標を果たして、何をしたらいいのかわからなくなってしまって……。燃え尽き症候群ですね。卒業後はホテルに就職したものの、人生の目標を見失い、なんとなくダラダラ過ごす日々。あのころが一番自信がなく、悲観的だったと思います。
そんなある日、家でテレビを見ていたら、ミス・ユニバースのビューティーキャンプの様子を追った特集番組がやっていました。衝撃でした。画面の中の女性たちはとても美しいのに、さらに美しさの高みを目指し、怒られて泣きながらも鏡に向かってポージングをしている。私はと言えば、目標もなくただダラダラ。「うらやましい」。心からそう思いました。そして、その気持ちがどうしても忘れられず、私もあの世界に行きたい、と。ミス・ユニバースになりたいというより、前向きに目標に向かって生きてみたいと思った。たまたまそれがミス・ユニバースで、別の何かを見ていたら、もしかしたらそちらを目指していたかもしれません。
ーーミス・ユニバースを目指すのは、たやすいことではありません。何から始めたのでしょうか?
当時は今より10キロも太っていて、鏡に映った自分に「このままじゃ全然無理!」と(笑)。でも、明日が大会だったら確かに無理だけど、3年後だったら? と考えました。私には、高校時代の3年間で無謀だと思われたソフトテニスのインターハイに出場できた成功体験がある。3年あればできるかもしれないーー。そう思った途端、それまで曇っていた目の前がパーッと晴れたように感じました。そして、「2012年のミス・ユニバース日本大会に出場する」という目標を打ち立てたのです。
すぐに3年分のカレンダーを用意し、自分がこれから何をすべきかを考え、1カ月後にはこうして1年後にはこうなって……と一気に書き込みました。もちろん予定通りにいかないこともありましたが、たとえば2010年12月には仙台から東京に拠点を移すなど、大きなアクションはカレンダーに則って進めて行きました。
ミス・ユニバースに出場するためにポージングやウォーキングは重要ですが、スクールなどには通いませんでした。教材はYouTube。日本代表の女性たち、世界大会に出場する女性たちのウォーキングのポイントを、動画を見ながら研究したのです。一歩踏み出したときの腰の位置は? そのとき肩が何センチぐらい下がるか?……といった具合に。体型が似ている人のポージングやウオーキングを徹底的に分析して、自分が一番美しく見えるウォーキングを見出していったのです。
東京に来てからはスタジオできちんと練習したかったのですが、何のツテもない。そこで、ネットで調べられるモデル事務所に次々と飛び込みで売り込みに行きました。「私は2012年のミス・ユニバース日本代表を目指しています。必ず選ばれるので、モデルになりたいわけではありませんが、練習のために所属させてください」と。ほとんどは冷たく断られましたが、一つだけ「3年後のあなたを見届けたい」と受け入れてくれた事務所があった。そこのスタジオを使わせてもらって練習したり、仕事でカタログモデルをしたり。カタログモデルって何千枚も写真を撮るので、ポージングのトレーニングにもなったのです。
ーー心が折れそうになったことはありませんでしたか?
何度もあります。一番は、上京したわずか4カ月後に起きた東日本大震災です。被災をまぬがれた私が、夢だの目標だの言っていていいんだろうか……。そんな罪悪感に押しつぶされそうになってしまったのです。
ようやく仙台に帰れたのが、震災から半月あまりがすぎた4月1日。幼いころから見慣れた風景は無残にも変わり果てていました。何かしなくちゃと焦るものの、実際に私ができたことといったら瓦礫を別の場所に移すことぐらい。自分の無力さに愕然とする一方で、絶対にミス・ユニバース日本代表になって被災地の声を世界に届けようと考えるようになりました。ミス・ユニバースに挑戦する意義が私の中で大きく変わったのです。
東京に戻ってからもできることを探しました。そして、ポージングやウォーキングの練習をしているのだから、それを生かしてチャリティ・ファッションショーをやろうと思いつきました。「モデルとして子どもたちに参加してほしいな」。そう思いつき、道を歩いている子を「ファッションショーに出ませんか?」とスカウトしたり。思い立つとすぐ行動しちゃうんです(笑)。
保育園を運営されている方とのご縁があり、そこの園児たちも協力してくれることに。2011年の7月から10月にかけ、月1回のファッションショーを開催。宮城県の物産を東京でかき集め、会場でそれを販売しました。私はたくさんの人にウォーキングを見てもらう機会を得て、参加した子どもたちはモデルという仕事に興味を持ってくれ、そして、売り上げを義援金を故郷に送ることもできた。自分が行動することが何かのプラスになる。これこそ生きている意味なんだーー。そう感じることができたのです。
(後編につづく)
記者:中津海 麻子
慶応義塾大学法学部政治学科卒。朝日新聞契約ライター、編集プロダクションなどを経てフリーランスに。人物インタビュー、食、ワイン、日本酒、本、音楽、アンチエイジングなどの取材記事を、新聞、雑誌、ウェブマガジンに寄稿。主な媒体は、朝日新聞、朝日新聞デジタル&w、週刊朝日、AERAムック、ワイン王国、JALカード会員誌AGORA、「ethica(エシカ)~私によくて、世界にイイ。~ 」など。大のワンコ好き。
撮影ディレクション:ethica編集長 大谷賢太郎
あらゆる業種の大手企業に対するマーケティングやデジタルの相談業務を数多く経験後、2012年12月に『一見さんお断り』をモットーとする、クリエイティブ・エージェンシー「株式会社トランスメディア」を創業。2013年9月に投資育成事業として、webマガジン「ethica(エシカ)」をグランドオープン。2017年1月に業務拡大に伴いデジタル・エージェンシー「株式会社トランスメディア・デジタル」を創業。2018年6月に3社目となる「株式会社トランスメディア・クリエイターズ」を創業し、小粒でもぴりりと辛い(体は小さくとも才能や力量が優れていて、侮れないことのたとえ)『山椒』を企業コンセプトに作家エージェント業を始動、ショートフィルム映画『IN-EI RAISAN(陰影礼讃)』を製作プロデュース。2023年までに、5つの強みを持った会社運営と、その5人の社長をハンズオンする事を目標に日々奮闘中。
ーーBackstage from “ethica”ーー
原さんは、2013年に行われたethicaのグランドオープンを記念したファッションショーで、エシカルファッションをまとい、美しいウォーキングを披露してくれました。
私によくて、世界にイイ。~ ethica(エシカ)~
http://www.ethica.jp