大谷: その時は嬉しかったでしょうね。喜ぶ砥川さんの顔が目に浮かぶようです。その後はどうなりました?
砥川: あの期間があったからこそ、とにかく深く考えるというベースがそこでできたんだと思います、本当に辛かったですが 笑。そこからたくさんの仕事に携わらせてもらって、いろいろな縁があって海外広告賞の審査員をやったりしていました。その中で海外のクリエイティブに触れる機会が多くなって、海外ではクリエイティブとかアイデアで世の中をよくしていこうというような事例がすごくたくさんあることを知ったんです。
その時、クリエイターとして社会の課題にアプローチできるのは、すごく格好いいなと思ったんです。その頃の自分が向き合っていたのは、基本的にクライアントが抱えていた課題だったり、商品やサービスをいかにして広めるかということでしかなかったので、クリエイティブにはこういう使い方もあるんだなとすごく嫉妬しました。
そして、それがちょうど3・11の後のタイミングだったこともあって、自分は今、世の中のために何ができるのかを真剣に考え始めました。
大谷: あの東日本大震災で人生に対する考え方が変わったり、生き方を考えたという人はたくさんいます。砥川さんもそのお1人だったわけですね?
砥川: ええ。ちょうど僕自身も結婚して子供ができた時だったので、よけいに考え方が変わりました。
でも、震災がありつつも結局何もできませんでした。これでいいのかなという、そんな気持ちもあって、2012年にプロボノを斡旋している団体に登録して初めてプロボノをやったのがTENOHASHIという池袋にあるホームレス支援団体のお手伝いでした。そこのウェブサイトを刷新するというプロジェクトがあって、そのメンバーの1人として参加しました。
大谷: その時の経験が、おそらくその後の砥川さんにとって大きかったのではありませんか?
砥川: おっしゃる通りです。それまでADKという広告代理店のクリエイティブを何年かやってきて、自分のスキルが広告代理店の中では成立していました。でも、はたして外に出るとどうなのかという感覚がその時にはあまりなかったので、それでプロボノをやってみたんですが、そうすると何かを広めるとか伝えるという、自分がこれまで会得してきたことが世の中の役に立つんだなと肌で感じることができたんです。
これはすごくいいなあと思ってさらに続けていくと、一般論としてNPOの人たちというのは思いはあっても、それを伝えるのがあまり得意ではないことが多くて、逆にいうと僕は広めたり、伝えたりすることを生業としてきたので、すごく自己有用感を感じて、そこからいろいろなNPOや市民団体のお手伝いをするようになりました。
大谷: その間、もちろん会社の仕事を続けながらですよね?
砥川: ええ、そうです。それでADKに14年いて、そろそろ新しいことにもチャレンジしてみたいという思いが強くなっていたタイミングで、事業側に行ってみたかったというか、商品やサービスといった、言われたものを広げるよりも、何か広がるものを作る側に行きたい。来たものをどう広げるかというよりも、もっとこうしたほうが広がるんじゃないかと考えるほうに携わりたいと思って、事業クリエイティブを掲げているGOに入りました。