極めて形式的で、ある種権威的な場所において、そのような情緒的な踊りが見られたことに私は未だに驚いています。そしてそれこそが、訪れる側と迎える側の良好な関係の一形態ではないかと思うのです。訪問や歓迎というのは往々にして形式主義的なものに陥りがちです。もちろんそれを否定する意図はありませんが、そこに歓迎している/されているという感情の振動が伴わないならば、いつまでたっても仮面を着けたまま舞踏会に参加しているようなものです。お互いに顔が見えないというのは都合の良い時もあれば悪い時もあります。
彼らが舞うその瞬間に存在していた「何か」は少なくとも形式的なものでは決していなかったし、仰々しい仮面もしていなかったはずです。そこには、その個人から出る感情のいくつかの雫が混じっていたし、私はそれに反応することが出来た。そのような歓迎の形が私は好きだし、それがより近い距離で他者を眼差すことを可能にするのではないかと思います。
ただ、「これだけ感情を込めたのだから歓迎の意をくみ取ってくれるはず」だとか、あるいは「受け入れる人たちは感情の込めたパフォーマンスを披露しなければならない」だとか、そういった「こうあるべき論」にはしたくないなとも思っています。歓迎というのはもっと偶発的な現象だし、感情に決まった枠組みを用意するというのもおかしな話ですからね。私は、そのような形の歓迎が存在していること自体に自然な好意を抱いている、ということを皆さんと共有し、皆さんにも自分なりに「歓迎」という相互作用について考えて欲しいと思っています。