実はこの「移動していないという感覚」はとても貴重なものです。近代化はある意味では身体能力の拡張と言われてきました。AIが人類の頭脳の拡張であることはもちろんですが、飛行機や新幹線、車の移動も、本来は徒歩という人間の基本能力を拡張したものです。そうして、人類は移動時間を短縮し、移動の効率性を高めてきたのです。一方でここには避けられないパラドックスがあります。つまり、移動時間を短縮しようとすればするほど、1分、1秒がとても長く感じてしまうのです。30分かかるはずの移動に、35分かかってしまうことが許せない、ということを誰でも体験しているはずです。電車が遅れて1限に間に合わないとなれば、憤慨ものです。
社会学的では1分1秒と私達が数えているものを「時計時間」、それに対して私達が心の中で感じる「長い」「短い」という感覚的な時間を「主観的時間」と言いますが、移動に関しては、時計時間の縮小は同時に主観的時間の拡大を引き起こします。ところが私が体験したのは、1時間が10分のように感じてしまう、主観的時間の縮小です。私が経験したのは、「移動時間がずっと続いて欲しい」という不思議な感覚なのです。
もちろん、「この時間がずっと続いて欲しい」という感覚は誰にでもあります。美味しい食べ物を食べているとき、ゲームに興じているときなど、数時間が一瞬に感じて、寂しくなることがあります。ところが移動時間に関しては、この感覚を感じることは稀でしょう。誰でも目的地には早く着きたいし、肩に隣の人の体温を感じていたくはありません。
私にとって、あの車移動は「移動時間」というものが消滅した瞬間でした。移動という退屈な時間を、濃密な満足感にひたされた時間に変えてしまった、ネパールの学生に全く脱帽してしまいます。私はあの時間に、何か純粋で原初的な体験をしたような気がしています。
時間というのは、伸ばしたり縮めたりできます。どうやら時間をめぐる哲学には、そうした変形可能性がとても深く関わっているようです。