彼らにとって、それは紛れもなくボールです。それも、息を切らしてでも追いかけ続けたい、最高の宝物なのです。良く跳ねる、綺麗なサッカーボールが手元にないからこそ、彼らの創造力がそれを生み出したと言えます。
私は単に、ゴミを再利用してボールを作ったことに感動しているわけではなくて、そのボールが「本物」のボールに負けずとも劣らない、彼らの宝物であることにどこか気づかされることがあるのです。つまり、子供たちにとって、モノの価値はもっと実践的で即物的だからこそ、「ボール的な何か」それ自体に充足するのです。
社会学者のタルコット・パーソンズは、自己充足的なものを「コンサマトリー」、反対に、道具的なものを「インストゥルメンタル」と表現しています。例えば、大学に行くために勉強するとすれば、勉強という行為はインストゥルメンタルです。逆に、知識を得たいからこそ勉強するのであれば、それはコンサマトリーです。
子供たちにとって、お菓子の袋でできたボールはインストゥルメンタルだけでなく、コンサマトリー的意味合いが強いでしょう。もし、ただインストゥルメンタル(道具的)なのであれば、何度も上からテープを巻いて修理する必要はないはずです。彼らは、あのLaysのポテトチップスの袋で一番外側を包んだ、あのボールそれ自体が大好きなのであって、あれは単なる遊び道具以上に宝物なのでしょう。
これは、私自身の生活を振り返る良い機会でした。モノを道具的に考えると、どうしても壊れたものは買い替えるという意識になりがちです。それは決してサスティナブルではないし、ウェルビーイングとは程遠いでしょう。モノそれ自体に価値がある、モノがもたらす効用ではなくて、そのものに愛着を感じることで、限りある資源をセーブできるかもしれません。彼らの創造力がそう教えてくれたのです。