ところが、ドボンになる生徒たちは(例外なく皆!)、恥じらいよりも歌や踊りの披露そのものを楽しんでいたのです。しかも、私のように何も出来ずにグダグダと時間を使うような子はただの1人もおらず、皆が何かしらの歌や踊りに長けていたのが驚きです。これは単に、その場にいた子供たちがたまたま歌や踊りが好きだった、というわけではないように思います。恐らくもっと環境的な要因、例えば、それが本来の活動を終えた後の余剰時間に行われたことなどが、彼らに歌や踊りの純粋な楽しさを教えていたのかもしれません。
これを説明するのはなかなか難しいですが、例えば、キャンプで焚火を囲んでいるとき、誰かが自然とリズムを打ち始めて、それに自然と歌がついてくるようなそんな感覚でしょうか。そんなとき、誰も自分が「歌を披露している」とは思っていないはずです。流れの中で、自分の番が回って来ることはありますが、それは自分を魅せる時間ではなく、共に在るため、その時間を楽しむための役割分担でしょう。
身の回りの環境は、私たちを特定の方向に導くことがありますが、「究極のエンターテインメント」というのは、設定された時間や場所ではなく、より偶発的に起こるものかもしれません。スマホも、サッカーボールも、トランプも手元になかったからこそ、身一つで完結する歌や踊りがより生き生きと、生命力に満ちた形で現れたと考えると納得できます。
私がこの連載を通して達成したいのは、実はこのようなエンターテインメントであったりします。消費するだけのエンターテインメントではなく、一体となるためのエンターテインメント。私が一方的に文章を供給し、皆さんがただそれを消費するだけではなく、連載を通して同じ空間を生き、その時間を生き生きと過ごすための文章を、読者と共に楽しむ。「読者対話型」の意味は、そこにあると思っています。
皆さんがこれを読んだ後、自分の中に「他者と何かを共有した感覚」が残れば良いな、と思います。それでは。