私は自分を仏教徒だと認識しているわけではないですが、この経験は社会学者のトーマス・ルックマンの議論を思い起こさせます。ルックマンは、近代化・世俗化に伴って宗教は衰退したのではなく、形態を変えて存在し続けていると主張しています。教会(寺院・神社)に行くという形態から、より日常に様々な形で散りばめられた表象の中から個人が選択・作成する形態へと変化したというのです。これを、ルックマンは「見えない宗教」と呼びます。
私の場合、寺院に行ったという点でルックマンと少しズレてしまいますが、私が「宗教的な何か」を感じたのは寺院そのものではなくて、綺麗に整えられた植木や落ち葉1つない石畳なのです。私以外の人は(恐らく一緒にいたベトナム人の友人でさえ)、植木や石畳など大して気にしていなかったかもしれません。ですが、私にとっては、あの丸く刈られた低木や整列した石畳という表象が、とある宗教形態に思えたのです。
ルックマンの言う「宗教の個人化」と「見えない宗教」は、恐らく色々な人にとって当てはまるはずです。「神と出会う」とか、「超自然的なパワーを感じる」というのではなくて、もっと曖昧なものとして、です。お守りを肌身離さず持ち歩くとか、浄化作用のあるお香を焚くとか、鳥居の端を通るとか、そういったときに少し背筋が伸びるようなそういう曖昧な感覚です。そういうものが無数に、至る所に散りばめられている世界に私たちは生きています。
私は別に「もっと宗教に自覚的になろう」ということを言いたいわけでもないですが、そうした些細なことがきっかけで心が満たされるという体験はウェルビーイング的ではないかな、とぼんやり思うのです。ルックマンの言うことが正しければ、「宗教」というものを斜に構えて見ないで、もっと気楽に選択的に、あるいは創造的に付き合っていくのが良いのかもしれませんね。
みなさんはどのように考えますか?