ただ、写真ではあの花の持つ力は伝わらないだろうなとも思います。花というのは、触って、匂いをかいで、色んな角度から見て楽しむものです。あの路面で売られていた菊が、私が見て、かいで、感じた「私だけのもの」であるように、向かいの花屋で買われていった花たちも「それを抱える人たちだけのもの」なのでしょう。
つまり、私たちが「知っていること」や「持っているもの」は自明では決してなく、私たちの身体性によって初めて意味を与えられているというわけです。例えば、菊の花の写真を見ても「知っていること」にはなりません。実際に触覚を使って感じることが、その菊の花を「知る」ということなのです。アーティストのライブでも同じでしょう。「ライブに行った」と言えば、身体がそこにあったことを意味します。決して記録映像を見て、頭の中でライブに参加した気分になったことを、「ライブに行った」とは言いません。
私たちが「ライブ体験」を大事にするのは、そこに身体があるからです。記録や記憶の再生には、身体は不在です。私があの蒸し暑い夜に菊の花を感じ、そこに美を見出したのは、私の身体がその時そこにあったからです。
巷では、ヴァーチャル旅行が登場していますが、身体が不在している映像にどこまで期待できるだろうかと私は懐疑的です。ヴァーチャル旅行で、現地に行った気になって満足するのは、嘘の身体を充足させることに思えるからです。だったら私は、旅行に行きたいというフラストレーションを身体の内に溜めておく方がよっぽど良いのではないかと考えます。
実は、この連載を通して私がやっているのは、その実践であったりします。読者の方がこの連載を読んで東南アジアに行った気になるよりも、「この筆者と同じような経験をしてみたい」と思ってくれれば良いな、と少し期待しています。場所は必ずしも東南アジアでなくても良くて、実際の体験からウェルビーイングを拾い上げる作業を、そのあなたの「身体」を通して行って欲しいわけです。
菊の花が綺麗だったということを言うのにかなり遠回りしてしまいましたが、読者の方には是非「へえ、ベトナムの菊の花は綺麗なんだ」で終わらずに、「私の周りにはどんな綺麗なものがあるかな」と思慮を巡らせて欲しいと思います。