まず、彼女が「互いに信じている状態」を作り出すために行っていたことは、私生活(プライベート)の共有です。家族の話から、恋人の話、趣味の話までとにかく雑多な、しかし本筋とは全く関係のない日常を、誰に聞かれるでもなく話す。自らの懐を先に晒して、散々観察させることで、信じるに値するかをとっとと決めさせるわけです。互いに探りを入れながら、徐々に防壁を取り去っていくようなやり方では時間がかかりすぎるので、正面玄関を開け放って「誰でも見ていっていいよ」と宣伝する。もちろんどこまでプライベートを公開するかは当人がボーダーラインを設定していますが、それでも私生活を明かすというのは「会って間もない人が、そこまで自分に教えてくれた」という感覚を相手に与えることになります。
彼女は、そんな私生活の1つとして、「1児の母」という側面を共有していました。学生ながら婚姻関係にあった彼女は既に数か月になる赤ちゃんの母で、子を両親のもとに預けてプログラムに参加していました。彼女はわざわざテレビ電話をして赤ちゃんの顔を皆に見せることで、相手からの信用を獲得していたわけです。
これは彼女が戦略的に赤ちゃんを利用したということではなくて、彼女には自分の本当に愛するものを躊躇なく周りに示す寛大さがあったということです。その寛大さ、懐の深さが、他者から信用を引き出していたわけです。つまり、信じられるためにはまず自分から腹を見せ、自分が相手を信用していることを示すことが必要ということになります。
信頼関係の構築を砂崩のようなものだと思っていた私はこれに驚きました。彼女のやり方は、砂を少しずつ削っていって相手の内側深くを目指していくものではなく、砂を取っ払って、さらにはその下にあるものを手に取って見せてくれるものです。そのおおっぴらな態度は、相手に抵抗感のない印象を与えます。
ですが、こうして得た信用も「信用」にすぎません。相手を信じている状態であるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。そこで次の彼女の行動が、それを「頼る」という行為へと繋げるわけです。
「信じること」から「頼ること」へ
(後編に続く)