八ヶ岳をホームグラウンドに登山ガイドとして活動中の林恭子さん。2018年には、あのエベレストに次ぐ世界第2位の高峰、K2登頂成功という輝かしい記録の持ち主です。
第23話の前編では、フリーランスとして東京で働いていた林さんの感動の初登山から、ヒマラヤ・ピサンピーク(6091m)登頂までのエピソードをお届けしました。
後編では、世界一難易度が高い非情の山、「K2」登頂という目標達成までの過程をインタビュー!困難の末、たどり着いた山頂で見たものとは?
八ヶ岳をホームグラウンドに登山ガイドとして活動中の林恭子さん。2018年には、あのエベレストに次ぐ世界第2位の高峰、K2登頂成功という輝かしい記録の持ち主です。
第23話の前編では、フリーランスとして東京で働いていた林さんの感動の初登山から、ヒマラヤ・ピサンピーク(6091m)登頂までのエピソードをお届けしました。
後編では、世界一難易度が高い非情の山、「K2」登頂という目標達成までの過程をインタビュー!困難の末、たどり着いた山頂で見たものとは?
「またすぐ来るね」。
そうシェルパたちと約束を交わし、ヒマラヤから帰国の途についた林さん。しかし次に目標に掲げたのは、世界最難関と言われる「K2」への登頂。周囲の誰からも「無謀」と言われる中、その過酷な登山に憧れを抱くようになります。
「地球上には、エベレストの8848m峰を頂点に、標高8000m以上の山が14あり『8000m峰14座』と呼ばれています。図書館に写真集があって、それを見ていた時、世界第2位の標高を誇るK2(8611m)がめちゃくちゃかっこよく見えたんですよ」
「次に登るなら、これがいいな」。まるで「ジャケ買い」のように一瞬にしてK2に惹かれた林さん。
「登山学校の先生からも、“林さんが今登山隊に参加しても、K2に登れる可能性が少なすぎる”と反対されました。難易度の低い8000m峰に登って練習を重ねるべきかもしれない。でも私はすでに40代。体力も時間もお金も限られている。たとえ何回かかっても、第一希望のK2に挑戦したい。そう思いました」
パキスタンと中国国境付近に位置するK2。高さこそ世界第2位ですが、登山の難易度はエベレストをはるかに凌ぐ「非情の山」と言われています。気象条件が厳しく、連続して晴れる日がほとんどありません。雪崩や落石による遭難も多く、登山者の死亡率は27%に上り、山頂に立った人は今までにわずか400人ほど。約1万人が登頂しているエベレストに比べて極端に少ないことがわかります。
「私が登った時点で、登頂に成功した女性は世界で20人ほどでした」
一方、ヘリコプターも来られないような奥まった場所にあることから、自然そのままの雄大な山容を眺めることができ、途中のバルトロ氷河から望む山岳景観の神々しいほどの美しさが、世界中の登山家たちを魅了してきました。
「そうか。尖っている山は難しいのか・・・」。険しくも神聖なその写真を見つめながら、
林さんの夢は、迷うことなく真っ直ぐにK2へと向かっていったのです。
のちにどんな試練が待ち受けているか、この時はまだ知る由もありませんでした。
目標を定めてからというもの、「K2に登る」ことだけをイメージし、新しい生活が始まりました。
出かける時にはリュックに辞書やダンベルを詰め、15kg以上の重さにして背負い、どこへ行くにも電車は使わず、ひたすら徒歩。
「映像制作の仕事で現場に向かう時も、あえて重い機材を担いで駅の階段や急な坂道を登りました。 “今、K2に向かって歩いている”と思うと、全部が意味のあることに変わり、ワクワクしました」
高山病対策として “血液サラサラ”の状態にしておこうと、毎日刻んだ玉ねぎに納豆を混ぜて食べるなど、食生活も改善。良いと言われて「そうだ!」と思ったことは全て実践したと言います。
命を守るために欠かせないロープの技術(ロープワーク)にも全神経を集中させて取り組みました。
「高所登山で酸素が薄くなると意識がもうろうとするため、 “目をつぶっていてもロープワークができなきゃダメだ”と習いました。傾斜が70度という急峻な山の斜面にロープを張って登るため、ロープワークを一つ間違えれば落下して死んでしまうのです」
自宅の玄関の靴箱の上には常にロープワークのセットを置いておき、疲れて帰ってきた時に、登山用の分厚い手袋をはめたままアイゼンの着脱から一通りのロープワークを練習。1分以内に終了できたら家に上がれるというルールを作ったり、トイレの前にもロープワークの装備を置いておきました。落ち着かない状態の時にこそ、あえて冷静に行動できるよう訓練を重ねたのです。
「両手にミトンをつけたままちょうちょ結びをしたり、本をめくって読んだり・・・(笑)。しょうもないけど1円もかからずにできることを自分で考え、実行していましたね」
林さんがシェルパに頼らずK2に登るためには、どこかの遠征隊に参加する必要がありました。しかし、登山を始めて間もない林さんには何のツテもありません。登山ガイドの講習を受けたのもその頃で、知り合った人たちに「いつかK2に登りたい」と話したと言います。
「そう公言し続けていた2年後のある日、私の話を覚えてくれていた人から、
“東北で遠征隊が出る。知り合いがいるから紹介しようか”と連絡があったのです」
ついにK2に挑戦できるチャンスが来た!
「叶えたい夢や目標があったら、それを周囲に発信し続けることは大事だと感じました。それが本当に自分のやるべきことであれば、いつか誰かが縁をつないでくれるんですよ」
“運命のラッキーカード”は何枚目にめくられるかはわからないけれど、その日がいつ来ても良いように準備だけはしておこう。そう心に決めて自分の可能性を信じ続けてきた林さん。その瞬間、夢に向かって大きく前進したのです。
ところが、K2遠征の1年前、トレーニングのため雪の北アルプス不帰嶮北壁に挑戦した時、予期せぬアクシデントが林さんを襲います。100キロ級の落石が林さんを直撃し、滑落して胸と背中を強打したのです。何度も繰り返し滑落停止の練習をやっていたおかげで雪壁にとどまることができたものの、血を吐き、身動きもできないほどの激痛に見舞われました。
それでも、「もしここがK2ならヘリも来ない」と、痛みに耐えながら何とか自力で下山。車と電車を乗り継いで、東京の自宅近くの病院へと向かいました。
肋骨が10本も折れ、肺に穴が開くという大ケガでした。
「これは大きな教訓。まだ1年あるのだから絶対に大丈夫」。激痛に耐えながらも、不思議とK2への気持ちは前向きでした。入院もせず、その3日後には大阪で登山の楽しさを伝えるトークショーに登壇。
練習もすぐに再開します。リハビリを兼ねてヨガを始めたのもこの頃。そして、その後も高度順応のために雪の富士山に登り、低酸素室でトレーニングを重ねるなど、ケガをきっかけに、気持ちはさらに強く、ポジティブに進化していったのです。
2018年6月。いよいよK2へのキャラバンがスタートしました。約2ヶ月かけて山頂を目指すその遠征では、5100m地点にベースキャンプを設置し、そこを拠点に6030m、6650m、7350m、7900mの4箇所にキャンプを設営。重い荷物を背負い、何度も行き来しながら低圧低酸素の環境に体を慣らしていきます。
「標高4000mを超えると普通の代謝活動は行われなくなるので、筋肉や脂肪が削ぎ落とされてじわじわ痩せていくんです。登れば登るほど消耗し、食べ物も消化もされないから何を食べても下痢をする。身を削りながら登っていく感じでした」
9人の登山隊メンバーの中で女性は林さん一人。そんな中で、
「何メートルまで行きたいの?」、「林さんは無理しないで。体調不良の人と一緒にベースキャンプに残って下さい」と言われたことも。頂上までは行かないだろうという前提での会話でした。
「ここに来るまでにどれだけ練習を重ねてきたことか。正直、めちゃくちゃ腹立ちました。でも、苛立つだけで、血中酸素濃度が10〜20%目に見えて落ちる。呼吸の仕方によっては息が浅くなり、具合が悪くなることもわかっていました。絶好調な状態を保つために一瞬たりとも気が抜けませんでしたね」
山登りの主義主張も価値観も違う人たちとともに過酷な山に登るには、体力だけでなく精神的にも強くなければ勝ち残れない。ヨガで身につけた呼吸法も冷静さを保つために役立ったと言います。
「登山中に悔しい思いをした時には、壮行会をやってくれた仲間たちや家族と撮った写真を眺めました。“日本でみんなが応援してくれている”と思うと、みるみる気分が落ち着いて、酸素濃度が安定したんですよ。気持ちをニュートラルに保とう。常にそう考えながら過ごしました」
「パキスタン人は “インシャアッラー”という言葉を口癖のように言っていました。 “アラーの御心のままに”という意味です。たとえ誰かに“残っていろ”と言われて山頂まで行けなくても、それは山の神様が決めたこと。“神様が良いと思えば、何が起こっていようと君は登れるよ”。彼らの言葉に何度も励まされました」
自然を前に謙虚な気持ちを取り戻し、「今できることを一生懸命やるしかない」。そう気持ちを切り替えて最終日に向かって準備を続けた林さんは、隊長の後に付いて自分のやれることを淡々とこなし続けました。
しかし、キャンプ3で再びトラブルが起きます。荷上げが予定通りいかず、すでに上部に用意しておくはずの酸素ボンベが必要数上がっていない。強制的に2人脱落させられることになったのです。林さんに参加不可の命令が下りました。
「ここまでか…」と諦めかけたその時、仲間の一人が「追加のボンベをみんなで担げばまだ行ける。全員で登ろう」と言ってくれたのです。
「低酸素状態が続く中では、人格が崩壊してエゴが出ます。自分さえ登れればいいと思う人もいれば、冷静な自分を保てる人もいました。山の厳しさもあったけど、人間の本質を見た気がします。生死を分ける瞬間、本音や主張がぶつかり合う中で、人のことを思いやることの難しさを痛感しました」
その頃、林さんの気力も体力も限界に達していました。
「キャンプ4に着いた時は、腸けいれんで悶絶するくらいお腹が痛くなって、もうこれ以上無理だと思ったのです。でも、メンバーの一人がお腹に※ツェルトを巻いてくれて、痛み止めを飲ませてくれました。“全員で登ろう”と言ってくれたのも彼でした」
※ツェルト:非常用簡易テント。緊急時身を包むことで体温低下を防ぐ
何度もアタックメンバーから外されそうになり、精神的にも体力的にも極限状態に達していたその時、いつも支え合ってきた仲間に勇気をもらい、「ここに残って死ぬわけにはいかない。私はまだ行ける」と気持ちを奮い立たせました。
その先に待っていたK2の山頂。何度諦めかけ、何度もう終わりだと思ったことか。
「だから、山頂に着いた時は、もうこれ以上1歩も登らなくていいんだ。終わったんだという強烈な安堵感以外、何の感情もありませんでした」
まるで奇跡のようにその日だけ晴れて、宇宙から見ているような崇高な景色が目の前に広がっていました。
最終的に登頂したのは9人のうちの6人。その中で、途中何度も気遣ってくれて、お腹にツェルトを巻いて励ましてくれた人が撮ってくれたのがこの写真です。
しかし、この写真を撮った直後に、彼が滑落して亡くなりました。
真っ青な空と神々しい嶺々を前に(氷河はあまり白くないのです実は…グレーで結構汚い)、「この景色をもう少し独り占めしてから降りるよ!」と言った彼を残して先に下山を始めたその時、「わーっ」という声がして、見上げたら彼が降ってくるように滑落してきたのです。
「足が震えました」
林さんの一番の理解者であり、遠征までの2年間、楽しい時も苦しい時も、ともに助け合ってきたかけがえのない大切な仲間。動揺する気持ちを抑えつつ、落ち着きを取り戻そうと「丁寧に丁寧に」、声に出して自分に何度も言い聞かせ、ロープにしがみつくように必死で降り続けたと言います。
“This is K2.”
「パキスタン人の言葉が今も心の中に残っています。神の御心のままにー。K2はそういう山でした」
夢だったK2登頂を達成し、無事帰国。日本で3人目の女性登頂者に名を連ねた林さんは、当時の心境をこう振り返ります。
「山に登り始め、山のことしか考えてこなかった8年間。K2から戻った後、もっともっと自分の記録を伸ばしていこうという気持ちにはなりませんでした。帰ったら大好きな八ヶ岳に移住しよう。親孝行もしたい。そう思いました」
2018年8月にK2から戻り、2019年3月には八ヶ岳暮らしがスタートしました。ずっと林さんを応援し、支えてくれたお母さんと愛犬“月子ちゃん”と一緒に。
「山登りを始めてから、毎週のように訪れた八ヶ岳。ここで森の豊かさを感じながら、丁寧に生きてみたい」
現在、八ヶ岳の山岳ガイド協会に所属している林さん。つい先日は、「長く八ヶ岳に住んでいるのに森を歩いたことがない」という80代のご夫婦の依頼で、苔の森をガイドしました。
「森や林を散歩したい、山の写真が撮りたい、スポーツとして登りたいなど、それぞれの目的に合わせて登山ルートを考えたり、下見に出かけたりすると、自分の山登りを計画するのとは違った新たな発見があります」と林さん。
愛犬を連れて山歩きするのも楽しみの一つなのだそう。
「八ヶ岳の自然を受信しながら、ここからゆっくり歩いていこう。山にはまだまだ学ぶことがたくさんある」と語ってくれました。
山登りやヨガを続ける中で、自分と世界はつながっている、一つのものだと感じることが多くあります。だから、自分を大切にするということは、同時に世界を大切にすることであり、その逆も然りだと思うのです。たとえば、食べることにしても、大地を傷つけずに育ったものを選んで食べるということは、自分の体を傷つけないことにもなる。世界に対する良い行いは、私にとっても良い行い。なぜなら私と世界はひとつだから。こんなふうに考えています。
自分をだいじに思うことができれば、同じ世界に生きる目の前の生き物の命、自然、環境、そして仲間や友達、家族もだいじにできるでしょう。その小さな積み重ねに、世界を良くしていくヒントがあると思います。
写真提供:本人 / ウェア提供:Marmot
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林 恭子(はやし きょうこ)さん:プロフィール
奈良県出身。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡ取得。2011年に初登山。2013年、ヒマラヤ・ピサンピーク登頂。2018年K2登頂。登山ガイドや登山学校講師の他、映像制作も手がけ、2013年にはカンボジアの子どもたちの日常を描いたドキュメンタリー番組がギャラクシー賞選奨を受賞。以来、アジア、アフリカなどの貧困地区で生きる子どもたちを訪ねるフィールドワークと番組の制作を続けている。2022年全米ヨガアライアンスRYS500取得、全米ヨガアライアンスキッズヨガRYS95取得、八ヶ岳の自宅スタジオにて「八ヶ岳ヨガスクール」を運営。
記者:山田ふみ
多摩美術大学デザイン科卒。ファッションメーカーBIGIグループのプレス、マガジンハウスanan編集部記者を経て独立。ELLE JAPON、マダムフィガロの創刊に携わり、リクルート通販事業部にて新創刊女性誌の副編集長を務める。美容、インテリア、食を中心に女性のライフスタイルの動向を雑誌・新聞、WEBなどで発信。2012年より7年間タイ、シンガポールにて現地情報誌の編集に関わる。2019年帰国後、東京・八ヶ岳を拠点に執筆活動を行う。アート、教育、美容、食と農に関心を持ち、ethica(エシカ)編集部に参加「私によくて、世界にイイ。」情報の編集及びライティングを担当。著書に「ワサナのタイ料理」(文化出版局・共著)あり。趣味は世界のファーマーズマーケットめぐり。
ーーBackstage from “ethica”ーー
40歳から登山をはじめ、以降8年間、ひたすら夢に向かって惜しみなく努力を重ねた濃密な日々。かけがえのない仲間と共に果たした快挙はとても尊く、大きな勇気をもらいました。
ダンベルを入れたリュックを背負って電車も使わず徒歩で仕事に向かったり、ミトンをしたままちょうちょ結びの練習をしたり。トイレを我慢しながらロープワークのスキルを磨くとか。「しょうもないけど1円もかからないこと」を日々継続した林さん。
今を一生懸命生きること。夢とは地道な努力の連鎖によってこそ現実のものになるに違いありません。
林さんに倣って、いつか私も山頂で「究極のマインドフルネス」を味わいたいな。
「今日から訓練を積んで、あの尖った山に登ります!」って言ったら、山の神様はどう思うだろうか。(どうも思わないな、たぶん)。
さて次回は、八ヶ岳に移住して20年。地産地消による食育、農業や養蜂、教育におけるさまざまな社会問題をテーマに、ドキュメンタリー映画の自主上映などを行い、八ヶ岳のために貢献している素敵な女性活動家のインタビューをお届けします!お楽しみに。
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私によくて、世界にイイ。~ ethica(エシカ)~
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